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騙す批評された引用

Posted on 7月 26, 2007 in 日記, 日記とメモ

フランソワ・トリュフォーの『映画の夢 夢の批評』の冒頭にある「批評家はなにを夢みるか」は、日本語訳が出版される際に書き下ろされた映画批評とは斯くあるべきだ、ということが書かれた評論みたいなもので、映画監督にとっても批評家について客観的かつ敏感であるのは、彼が最初は批評家だったからだろうと、読むと思わされてしまうが、たぶん映画監督に限らずモノを作る人は批評について考えるだろうし、批評を気にしない人がいたとしても、「私は批評を気にしない」と考える時点で思考の中心に批評がかかわるし、そうでなくても少なくとも周りは「批評を気にしてない」とか思ったり評価したりして、それもやっぱり批評を中心とした考え方で、でも多くの作家は自分の作品の批評に気を病んだりしつつも、そのことはあまり公言しないし、批評の意義を自分を中心としてではなく、もっと広い空間の中に位置づけることはなかなかしなくて、でもトリュフォーはする。
一本の映画が真の成功作となるための必要条件として、そこに映画作家の世界観と映画観が同時に表現されていなくてはならないと考えていた。
と、本の冒頭近くで彼は書き、そういう映画はどんなんだろうとボクは想像するけれど、そこででてくるのはやっぱり『アメリカの夜』で、想像は7月20日の日記に繋がりそうになって、そこには『インディビジュアル・プロジェクション』に出てきたヤクザっぽい人たちの姿が、いま、映画を撮影している映画の1シーンになって見えそうになるけれど、今日書きたかったのはバルザックとサント=ブーヴについてだ。

トリュフォーのこの本の訳者は山田宏一と蓮實重彦なのだが、訳するにあたって意図がわからない言い回しや単語などは、山田宏一がトリュフォーに手紙を出してやり取りしたらしいことがあとがきに書いてあって、本文の脚注にその手紙の内容もちらほら書かれていて、サッシャ・ギトリの作中でサント=ブーヴが、「だれも読みはしないだろう百巻もの小説を、最初と同じペースで書き終えることに一生懸命」とバルザックを大胆に叩いているという本文の脚注として書かれたトリュフォーの書簡によると、それはサッシャ・ギトリが批評家にあてて書いたパンフレットの一部らしい。
バルザックとサント=ブーヴはバルザックが1850年に死ぬまで論争を続けていたらしく、バルザックへの追悼文の中でもサント=ブーヴは、才能を評価しつつも皮肉をこめていて、その追悼文の中では、バルザックが「落胆して怠け者になってしまったある彫刻家のこと」を皮肉って書いた「似非芸術家になった彼は、サロンで大成功をおさめ、多くのアマチュアから相談を受けた。彼は、世間に出たての時に人を騙すすべての無能な人間と同じように、批評家になったのだ。」という文章を引用してあるということも、次に脚注には書かれてあって、この連なりはとてもおもしろく、おそらくトリュフォーはそのおもしろさを意識して書いている。その脚注がついている本文はこうだ。
このサント=ブーヴとバルザックのたたかいを、どちらにも完全な勝利をもたらすかたちで時が解決してくれたことを、わたしたちはもちろん知っている!

ぐちゃぐちゃしてわかりにくいから、並べ変えてみる。古い出来事から書こう。
まずバルザックとサント=ブーヴの論争があって、時期はわからないけれどバルザックはある彫刻家がアマチュアから相談を受けている様子を「世間に出たての時に人を騙すすべての無能な人間と同じように、批評家になった」と言う。この言葉は、批評家が人を騙し無能だというのか、それとも無能な人間が人を騙すように批評家になった、というのか、たぶん前者だがよくわからない。ちなみにボクはサント=ブーヴがどういう人か、知らない。
で次に、バルザックが死んだときの追悼文で、サント=ブーブが上記のバルザックの言葉を引用する。ついでに、「氏は批評を、あまり高く評価しなかった」とある。
すでに複雑だ。作り手のバルザックに言わせると、彫刻家は作り手から批評家になってしまい、そのバルザックはサント=ブーヴと論争しあい、批評をあまり評価せず、サント=ブーブは批評家になってしまった彫刻家の逸話を引用する。
そして次に、サッシャ・ギトリがバルザックとサント=ブーヴの論争をパンフレットに書く。その内容には上記の彫刻家の話や追悼文のことは書かれていないが、それを読んだトリュフォーはサッシャ・ギトリが書いたその文を引用し、その横にバルザック対サント=ブーヴの戦いはどちらも完全な勝利だと書き、脚注に追悼文や彫刻家の話を書く。サッシャ・ギトリは映画監督だがトリュフォーが引用するのは文章で、トリュフォーはもともと批評家だった。で、この評論全体は批評についてだが、何の批評かというと映画の批評だ。

あんまり整理できた気がしないが、この誰かが言った何かが、次に誰かに話されて何かになりながらも、もとのままでもあるような状態は、ほとんど人生とか生活とかそういったものに感じられる。
自分以外の人間を理解すること、すべての真実を——たとえそれが自分の存在とかかわりがなくても——うけいれる結城と寛容にささえられていた。
と、ルノワールの映画についてトリュフォーは書く。

で、もう明け方だがなぜ日記を書いているかというと、友だちに「日記に何を書けばいいか」と相談されて、ボクは「日記についてなんかよく考えていることを日記に書く友人に、日記に何を書けばいいか相談して、こうなった」と書いたらいいんじゃないかと提案するついでに、自分も日記を書くと宣言してしまって、こうなった。

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