やらなければならない論文執筆はやりたくないので、論文を書かずに論文を完成させる方法を考え続けて1週間、大学に入ってからずっと、直接ではないにせよ見てくれていた彼女は幾度も「あなたは確信犯だから」と言い、悪い気がするわけではないけれど見透かされている感じがして、ボクが確信犯であることを彼女は確信犯的に気づかせて来るのだが、別に欺くつもりもないけれど、確信犯的に確信犯を止めるにはどうしたらいいかとかを考えていては書ける論文も書けない。わかってはいても彼女の言葉は頭の「すみっこ」で響き続けて、それは疲れて脳が休み始めたときに始まり、布団の中にいる間、ボクは自問自答することになる。
メディア・アートというとなんらかのテクノロジーを使ったものを思い浮かべてしまうが、この言葉が出て来た当初はテクノロジーとは何ら関係なく「伝達手段自体が意味をもつアート」だったはずで、その意味で、日記の中で日記について考えたり映像で映像について考える人々は本質的にメディアアーティストだから、ボクもそうなので、論文について考える論文を書こうとも思ったが、それだったらモチベーションがあがるかというと、そんなはずは全くない。
ということで、論文を書かないで論文を完成させる方法は見つからないので一旦おいといて、次に論文を書くのは誰かというのを考えることにした。論文を書くのはボクです。でもボクはボクとして文章作品を書いたことはなく、筆名を使っているのだけど、そのフィクショナルな執筆者とボクの関係は、ボクがその人に書かせているとも言えるし、その人がボクに書かせているとも言える奇妙なもので、たぶん文筆家は多少なりともそういう経験があると思うけれど、つまりフィクションの人物が論文を書くことは可能なのか?その人でなくてもよくて、ボク以外の誰かがボクの論文を書く事は可能なのか?もしくはボクがボク以外の誰かに論文を書かせる事は可能なのか?
ポイントは引用だ。引用の辞書上の意味はともかく、引用される文中の主体は引用者の主体と必ず異なる、が、この制度をどうにかして利用できないだろうか、と考えている時の頭の使い方はやっぱり学者とは決定的に違うのだろう。書けるのか?書けません、なんて反復が続く限り完成はしないだろうけど、直前までは自問自答は続く気がしていて、これも学者とは違うのだろう。
学者とは違う、というのは、私は学者ではない/学者になるつもりはない、ということを意味はしない。同じく、アーティストという言葉についても同じことで、つまり同時に両方である道もあるのだ。でも、この可能性を書いたボクがその道を選ぶかというと、それもやっぱり違う問題だ。



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