複数のもの

内-外の対比は(どちらにも属する境界という概念を使うとしても)少なくとも現代のいくつかの小説を分析するにあたって、有効ではたぶんない。対比自体が有効ではないのだから、もちろん内外が曖昧だという言い方も的を射ないものになる。でも、かといって中心がなくなってるわけではない気もする。むしろ中心が多過ぎるのかもしれない。

中心という概念を残すとなると、内外も使わざるを得ないのか。中心が多過ぎるから、内も外も多過ぎて、どこがどこだかわからなくなるという言い方は適切ではないだろう。

小島信夫のことや保坂和志のことを書くことはできるだろうか。小島信夫のいくつかの短編は 最近読んだものだし、ある程度覚えているが、保坂さんのはどうしても記憶ができないし、『カンバセーション・ピース』を読み直す時間があるか。悩んでる間に読み始めたほうがいいんだろうけど。保坂さんの「家」は、とても家らしいし、身体と「家」の関係もとても丁寧に書かれているけど、それはあまりに安心すぎて、ともするととっても古めかしい象徴的な家としてしか書けないかもしれない。そして少なくとも『カンバセーション・ピース』は、主体が揺れない。むしろ小島信夫の『返信』とかのほうが、主体の位置を論ずるには適当な題材なのだろう。でも保坂さんのは、書きたい。

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